昭和五十六年一月四日 朝の御理解
御理解 第一節 「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。」
 今天地の開ける音、今という事はいつもという事だと思うですね。いつも天地の開ける音はそれこそすさまじいと言うかとにかく、あまりにもすさまじい轟音というかね、大きなこの地球の回転音というような事を申しますが、あまりにも大きいからわからないのであってね、今天地の開ける音と、もういつも四六時中そのすさまじい音の中、いうならすさまじい神様のお心の中にあるのだ。
 けれどもそのお心がわからず、お心を覚らず知らずにおるわけです。何かの機会に何かの機会というかこちらの心の調子いかんによってね、いわゆる開眼する。本当に知らなかった、こういう事になってはじめて目が覚めたというようにね、知らなかった、知らなかったなんです。そこに何かがそこに、一つのきっかけとなって目を覚ます事になる。はじめて神様をわかるようになる。いわゆる入信である。
 本当の意味に於いての信心にいうなら開眼するわけです。そこから金光教ではどうしてもおかげという事が先行致しますからね。おかげを受けたいばっかりに参りよるという人がもう多いのですから、先ずおかげへの開眼です。
 成程人間の知恵やら力で出来る事じゃないなあ、神様のおかげを頂かなければという開眼です。それからいうならば、御理解、第二節に信心すれば誰でも御神徳が誰でも受けられるといったような事が、おぼろげながらわかってきましてね、そんならその御神徳を受ける為にはというその御神徳への一つの心というか、いわゆる開眼をする事という事が御神徳を頂く事の為の自分の在り方というものが、やはり開眼しなければ、本当に人間は御神徳を頂かなければ人間じゃない。魂が助かるという事はあの世へもつながる事だから、何というても魂の助かり。それは御神徳を頂く以外にはなない。と言ったような事の思いこみがね一つの開眼なんです。もうそこからいうならばものの見方考え方なんかが、全然変わってくるいうなら、生き方が許されるわけですね。これは開眼につながるかどうかはわかりませんけれども、やっぱ修行でもそうです。こりゃすべてのどういうこつの稽古をするでも修行のない稽古というものはあり得ないですけれども、私は今朝方、私はもうやすませて頂く時に部屋が暖めてありますけれども、暖房切ってから休むんです。この頃は寒いですから夜中に布団の中が冷や冷やするようにまあ寒いんです。
 今日も途中で手洗いに行きましたから寒いです。部屋の中も寒い。それで暖房入れようかなあと思ったんです夜中に。そしたらね、あのお知らせを頂きますのに、言べんに忍という字を頂いた。何と言う字になりますか。言べんにね、こう忍と何んという字、認めるという字じゃねやっぱり。今私が言うておる事、思うておる事、その事はね神がいつも認めておるという事は、神が受けておるという事です。私がねもう休む時には必ず暖房を切るね、一晩中つけちゃ勿体ない。というところから切る事になったんですけれども、その事でもですね、神様が認めておる、神様が受けておられるのだから、ああ、ここはやっぱ寒かってもこりゃ、もうこんくらいな事は酷寒だから当然だと頂いて行く事が神様が修行として受け取って下さる。こりゃもう本当に驚きです。例えば、私がね朝どんなに寒い時でもお湯を使いません。今は凍るように冷たいですけれども、もうとにかくこの辺から(手の肘の辺)こう手から洗っとってねそれから、頭をざぶざぶざぶ洗うんです私は、冷たいです。お湯の方がいいです。楽です。けどもこれはもう昔からですし、楽な方を目が覚めてから最近取るような事じゃいけないと思うて、まあ修行にもなるまいけれども、ささやかだけれどもと思うてさして頂いとる。そういうような事でも神様が修行で受けておって下さるんです、ね。 私が夜中に暖房を入れん、けれども、私は夜中には切って休もう。別にそれを修行と思ったわけでもないけれどもやはり、勿体ない。たまに温い時なんかは暖房を入れたままにしとくと、布団の中で汗が出るような事がある。
 そんな事ではいよいよ相すまん事だし勿体ないから、とにかく切って休む。休むとここ二、三日のように寒く、冷たくなってまいりますと、成程布団の中にまで冷え冷えとして寒い。
 私はそのこたつとか電気毛布とか使うのが大嫌いですから、あれを使いません。ですから布団の中がやっぱ冷え々と致します。だから今日は暖房を入れようかと思うたら、なら、神様がお前が今思うておる事、言うておる事、そりゃ神がいつもあれだけ精進しよるなあと神様が受けて取って下さる認めておって下さるんだと、そこには神様をがっかりさせる事になるし修行が修行にならない。もう四六時中私共のいうならば、思いの中にいつもそういうものが有難い勿体ない、相すまんといったようなね、ものが心の中に、なからなければならないわけね、信心させて頂く者は。
 だからたったこの位の事でも、神様が修行と受け取って下さるのであるからこれは本気でその事には取り組まなければいけないなあと思う事、それが開眼ではないでしょうか。とにかく些細な事でも、しだごだにしない事。今朝からの私のまあ、ささやかなその体験ですけれども、神様がこの位の事でも受けておって下さるんだ、認めておって下さるんだと思うたら有難い。少し冷え々する位の事は問題じゃないように有難いんです。信心させて頂く者のまあ、一つの心がけというものもね、一ぺん目を開かなければおかげにね、先ず入信、神様を感じる、やはり開眼です。
 おかげ、成程開眼です。御神徳もいよいよ、ねえ、開眼しなければ御神徳の頂けていけれる手立てがわかりません。やはりそういう働きがいつも四六時中あっておる。 しかもすさまじい働きの中にあっておる。けれども私共が、迂闊にしておるからあまりにもその大恩が大きい為に、聞こえないのであって、心を澄まさせてもらうとそれを聞きとる事がでける。はじめて目が覚めるという事になるのですよね。
                              どうぞ。